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手挽き石臼
日本茶の始まりは、留学僧の栄西が1191年に茶の種子を中国から持ち帰って、寺の境内に植え、栽培が始まったとされています。
栄西が著した『喫茶養生記』では、「茶は、養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。」と記されており、最初は薬として使われていたようです。
やがて、貴族や高僧、高級武士などの間で喫茶文化が始まりました。安土桃山時代になると、茶人 千利休らが独自の「茶の湯」を完成させました。
江戸時代に入ると一般に抹茶を飲む文化が広がり「茶道(ちゃどう)」となりました。また、庶民がお茶(番茶のようなもの)を飲む習慣もこのころから広がっていきました。
さらに製法が進化し、玉露・煎茶が誕生したのはさらに後のことでした。
■「西尾の抹茶」の歴史
南山園のあるこの三河地域では、1271年に実相寺の開祖である 聖一国師が寺の境内に茶の木を植えたのが「西尾の抹茶」の起源とされています。
また、江戸時代に入ると徳川家康がこの周辺でお茶の栽培を奨励し、出来たお茶を献上させたと記録も残っています。
明治時代に入り紅樹院住職が積極的にお茶の生産を広めて行きました。早くから、高級茶の生産に取り組みが、現在の「抹茶の里 西尾」を作り上げてきました。
実相寺(西尾市)
紅樹院にある西尾茶原樹
■「西尾の抹茶」の立地
西尾の抹茶の産地であるここ愛知三河南部地方は、矢作川が流れており、温暖で肥沃な土地が広がっています。この矢作川の恵み、肥沃な大地と川霧の発生・水はけの良い土壌が、良質な茶の栽培に適しています。
また、この地域は良質な石の産地でもあります。抹茶専用の茶臼として、硬さ・キメの細かさなどが最も適した花崗岩を産出する岡崎市が隣接します。京都を始め、全国の抹茶専用茶臼の多くが岡崎産であるように、岡崎の石質、石細工の技術は日本でも指折りです。
この運命的な出会いが、この抹茶の里を作り上げています。
石臼
覆い下茶園